• 7月19日(木) ロータリー情報

    ロータリー情報・定款細則委員会委員長 佐々木 金治郎

     

    ポールP・ハリスの略史       

    ◆誕生

     ポールP・ハリスは、1868年(日本では、明治元年)4 月19日、シカゴから北に100キロほど離れたウィスコンシン州ラシーン市において、父ジョージ・ハリス、母コ―ネリアの二男として誕生しています。

    【世相】1868年の日本は大政奉還され、15代将軍 徳川慶喜から明治天皇へ。年号も「慶応」から「明治」に改元された。

      五箇条の御誓文、福沢諭吉・慶応義塾創設

    ◆幼少の頃

     父母の両家は富豪であったが、家庭的に恵まれず、3歳の時に家計困難で兄とともにバーモンド州ウォーリングフォード町に住む資産家で賢明な祖父母に養育され、祖父母の教育と、この町に住む人々が職業を理解し合って楽しく生活をしていることがハリス少年の記憶に残り、後のロータリークラブ構想の発端となった。

     ハリス少年は、幼少時代から高校まで「いたずら少年」だったと言っているが、学校では「知性と指導力に長けていた」といわれ、祖父の勧めで規律教育のために陸軍士官学校に入学し、指導者としての素質が抜群な成績を収めている。

     ◆大学生時代

     1885年(明治17年)、ポールが、バーモント大学で新入生をいじめた仲間という濡れ衣で退学処分となるが、後日、大学側が過ちであること認め、「名誉博士号」を授与されている。

     この頃から責任感のある青年に成長した。

     1887年(明治19年)、ポール 19歳で名門プリンストン大学に入学。その年に祖父が逝去。1年間、大理石会社で働く。

    1889年(明治21年)、祖父が若い頃、弁護士希望であることを知り、法律事務所で法律を勉強して、アイオア大学法律学部に入学。

    1891年(明治23年)、ポール23歳。法律の学位を取得して卒業。

     

    ◆5年間、アメリカと世界各地を見聞し、職業体験を決意する。

     アメリカでの2年間で体験した職業

       ・サンフランシスコ 新聞記者   ・バカ渓谷で果樹園の労働者

       ・フレスノではブドウ包装工場   ・ロサンゼルスでは商業学校教師

       ・デンバーでは劇団役者、新聞記者 ・ブラットビルでカウボーイ

       ・ジャクソンビル 夜勤事務員     

     1893年(明治25年)

       ・ワシントンで新聞記者     ・ルイズビルで大理石・花崗岩会社

      その後、念願のイギリスに行く。

       ・船会社の家畜係(干草作業)   ・トウモロコシの缶詰工場

      数週間で4回も渡欧して、ロンドンを広く見聞している。

      再び、アメリカ各地を回る。

       ・ミシシッピーでオレンジ包装作業 

       ・フロリダの大理石・花崗岩会社に勤め、ハバナ諸島、キューバ、アメ   

        リカ各地、スコットランド、アイルランド、ベルギーイタリアの大理

    石の買い付けに回る。後に、ニューヨーク事務所の支店長になる。

     

    ◆いろいろな職業を体験して「寛容の精神」を学んだ。

     祖父母から「他人に対する寛容、思いやり、優しさ、尊敬の念の尊さを学んでいた」あわせて「5年間の尊い経験から職業と親睦と奉仕の偉大さを知った」と言っている。

     1896年(明治28年)2月27日、ポール28歳。シカゴで弁護士を開業

       当時のアメリカ社会は変動期にあり、荒廃していた。あらゆる人種、信条、文化の坩堝(かんか=るつぼ)は犯罪、汚職、暴力の巣窟で利己主義・悪徳商法が横行していた。

      ※寛容心が広く、人をよく受け入れ、過ちを許すこと。対語=狭量

     

    ◆「一業種一名の相互扶助」のクラブ構想が芽生えた。

      ポールは、15年間で30か所も住所を変えている。 あらゆる宗教の礼拝に加わり他人の友情と欲求を理解することを知る。1900年(明治32年)秋、ポールは友人を訪ね、公園を歩きながら、その友人が誰とでも出会う度に、お互いに取引関係のあることに気付き、“屈託のな い親しく挨拶、軽い冗談を言い合う姿”に「真心と歓迎の微笑みがある」と思ったという。ポールは、この光景を見て、荒廃したシカゴにあって少年時代を過ごしたウォーリングフォートでの村人たちの友情に結ばれた美しい光景を思い出した。これこそがポールが求めて掴み得なかった「人間の絆」であったと思い出した。ここに「一業一人の相互扶助」の新しいクラブ構想が芽生えたという。※村田会長の言う「相互扶助」はここにある?

     

    ◆「寛容と親睦と友情の精神」

       専門職業界を1人が代表することによって社会のためだけでなく、互いの職業を利用し合うことによって会員同士の「親睦」と「相互扶助」に役に立ち、特に新会員は新たな友人となり、公正な取引は信頼感を深める。会員が多くなれば、この輪が広がり、会員は「寛容と親睦と友情の精神」に溢れた人でなければならない。この「寛容」は、祖父母に教わったものと共通しているとポールは言う。

     これこそが、クラブの理念であり、「善意と寛容と理解から奉仕」に発展して行く基本であると思い、最も親しい知人に話し、反応はよかった。

     

    ◆ポールは行動に移す。

     1905年(明治38年)2月23日の夜、他の3名と世界最初の奉仕クラブ「ロータリー」を創設した。

    ※明治38年の日本=日露講和条約(ポーツマス条約)調印 

    重工業を中心とした産業革命

      夏目漱石の「坊っちゃん」発表

     

     1908年(明治41年) ポールP・ハリスがクラブ会長となる。

     1910年(明治43年) ポール42歳。スコットランド・エジンバラ出身の

        ジーン・トムソンと結婚。弁護士事務所開設14年目。ロータリー創設5年目の夏。シカゴ郊外に居を構える。

     1935年(昭和10年)2月9日 第5回太平洋地域大会(マニラ)に向う途中、

    横浜港に上陸。初来日、一日滞在。神戸出港

     

     1947年(昭和22年)1月27日(月曜日)78歳で逝去 

     

     ◆ポール・ハリス年譜

    年 月      出    来    事  記  事
    1868年 4月19日 米国ウィスコンシン州ラシーン市5番街316番地で誕生 父・ジョージ・ハリス 母コ―ネリアの二男  
    1871年 夏 バーモント州ウォーリングフォード街に移住、父方の祖父母に養育される。  
    1883年 6月 ラトランド高校卒業 ブラックリバー専門学校に入学  
    1884年 秋 ブラックリバー専門学校を退学サンストンリバー陸軍士官学校に入学  
    1885年 3月 バーモント大学に入学 いじめの濡れ衣で退学処分
    1886年 3月 バーモンド大学放校となる。◆いじめの濡れ衣を認め、大学は名誉博士号授与  
    1887年 4月 プリンストン大学に入学  
    1888年 3月 祖父はワード・ハリス 86歳で逝去  
    1888年12月 プリンストン大学卒業、西ラトランドの大理石会社に勤務、祖父が弁護士志望を知り、法律事務所で法律を勉強  
    1889年 3月 アイオワ州立大学に入学のためにアイオワに向かう。  
    1890年 9月 1年間、アイオワ州デモインの法律事務所所で研修し、アイオワ大学法科に入学  
    1890年10月  祖母 パメラ 78歳で逝去  
    1891年 6月 23歳。アイオワ大学で法律の学位を取得して卒業、アメリカ各地を旅行。見聞を広め、職業体験を決意。5年間放浪の旅をする。  
    1892年 6月 フロリダ州ジャンクソンビルで大理石商ジョ―ジ・クラークと  
    1993年 ワシントンで新聞記者  
    1896年 1月     2月27日 シカゴに定住。7月27日、弁護士事務所を開く。28歳  
    1900年 夏 友人宅に招かれた時、ロータリークラブの発想がひらめく。  
    1905年  2月23日 友人3名とともにシカゴにロータリークラブを創立する。  
    1907年 7月 シカゴロータリークラブ会長に就く  
    1910年  7月  2日 国際ロータリーの前身、ロータリー連合会の会長同年、英国エジンバラ出身のジーン・トムソンと結婚する。ポール42歳  
    1912年 シカゴ郊外に新居を構える。ジーン夫人の故郷にある街路の名称にちなんで「カムリー・バンク」と名付ける。  
    1928年 『ロータリーの創設者』発刊  
    1935年  2月9日 『ロータリーの理想と友愛』発刊第5回太平洋地域大会(マニラ)に向う途中、横浜港に上陸。初来日、一日滞在。神戸出港  
    1947年1月27日 80歳逝去  
    1948年 『わがロータリーへの道』発刊