7月28日(木) 卓話
皆さん、こんにちは。2週間程前に、酒井幹事から「駒里の現状と今後の展望」について話をしてほしいというメモをいただきました。酒井幹事の字が達筆で、「展望」という字が分かりにくかったわけですが、それくらい駒里の展望についても分からない状況になっております。
千歳の開基は136年ですが、駒里は開基125年ということです。駒里小学校100周年の記録を見ますと、明治7年と42年には、樽前山の大噴火の記録が載っております。どういう状況であったか分かりませんが、駒里地区にもいろんな影響があったんだろうと想定しております。
私共の生活に関する情報としては、昭和25年に開拓地として駒里が設定されまして40戸が入りました。私が入植しましたのは昭和30年です。火山灰が1メートルもあって、何が適地適作なのかとわからない状況で開拓に入ったわけです。したがって、適地適作を模索するのが日常でありました。
地力がないことから、畜産を主とした生活形態を模索したわけです。国の制度として生後6ヵ月くらいの牛を貸してもらい、それを育てて将来自分の糧にするという流れで話が進んでいたわけです。道庁にお願いして、いかにたくさんの貸与牛を駒里地区に持ってくるかということを、本当に一生懸命に頑張った時代があります。
その後、大学や競馬場を誘致したことがありましたが、一般的には酪農ということで、豚や鶏を養ってきたわけです。養鶏は昭和38年からで、41年には大規模な養鶏場が点在するようになっております。
昭和56年には、語らなければならないことがあります。皆さんご承知のとおり、放水路のことであります。8月頃に大水害がありましたが、石狩川の治水が進むとともに、千歳川から石狩川に全然水が入らなくなったという実態を踏まえて、これは太平洋に流すしかないという選択をして、昭和59年には駒里に放水路を通すので協力いただきたいと申し入れがありました。国の河川審議会を通じて了解を取って、さらに閣議決定をして正式な申し出として私共にきました。
しかし、平成11年8月に開発局長から「困難であります」という通知があり、駒里の人たちにどれくらい影響を与えたかということですが、一言で語っても理解できないと思いますので、ここに書類を持ってきました。その後、駒里対策協議会を設立して、さまざまな対応をしてきました。
駒里の農家の経営状態は惨憺たるものになりましたが、農地は農地法により自由に売買できない。千歳の場合、2町歩が最低の農地という規定があります。それで、1反(300坪)で農地として売れるように国にお願いして、特区の認定をいただきましいた。
まだまだ話したいことはたくさんありますが、時間がきましたのでこれでやめますが、駒そば亭も地域のためになればいいと思って頑張っておりますので、皆さんにご協力を賜りたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
たくさんの資料を持参し、熱弁をふるわれ、一同聞き入りました