3月5日(木) 職業奉仕委員会卓話
講師紹介:浅利 美恵子 委員長
本日の講師、穂積 雅子 様をご紹介致します。1986(昭和61)年9月に福島県で生まれ、父の仕事の転勤で幼少期に北海道へ転居しました。小さい頃からやんちゃで外で遊ぶ事が大好きだったそうです。千歳市立日の出小学校在学中に体育の授業で初めてスケートをしたのがきっかけで、市内のスケート少年団に入団し、本格的にスケートを始めました。その後、2002(平成14)年3月に千歳市立青葉中学校をご卒業、同年4月に駒澤大学付属苫小牧高等学校にご入学され、高校時代はインター杯で2冠(1,500m、3,000m)、冬季国民体育大会3,000m優勝、フィンランドで行われた世界ジュニア大会3,000m優勝など輝かしい成績を収められました。
2005(平成17)年4月には同高校出身の田畑 真紀 さんが所属する富山県のダイチ株式会社に入社。2008(平成20)年W杯ベルリン大会第3位、2009(平成21)年世界選手権アジア地区予選大会総合優勝、その世界選手権では総合4位、同年W杯ベルリン大会第2位、バンクーバーオリンピック選考会で2冠を制してオリンピック日本代表の座を射止めました。2010(平成22)年に行われたバンクーバー冬季オリンピックでは、女子チームパシュートにて田畑 真紀 選手、小平 奈緒 選手と共に日本女子スピードスケート界史上初となる銀メダルを獲得しました。その後、2011(平成23)年の冬季アジア競技大会2冠などを経て、2014(平成26)年にはソチオリンピックに出場、同年4月22日に現役引退を発表し、6月より千歳市の臨時職員として、スポーツ振興課に勤務、同年10月より市の正職員となり現在に至っております。本日のテーマは「アスリートについて」です。それでは穂積様、よろしくお願いします。
卓話テーマ「アスリートについて」
バンクーバー冬季オリンピック銀メダリスト 穂積 雅子 様(千歳市職員)
只今ご紹介頂きました、穂積 雅子 です。まず初めに、これまでの私の軌跡をムービーにまとめてありますので、ご覧下さい。
※幼少の時代から惜しまれて引退されるまでスケートに打ち込んできた穂積様の軌跡が流されました。その一部を画像で紹介します。クリックしてご覧下さい。
ここからはパワーポイントを使ってお話しさせて頂きます。(以下卓話の概略をご紹介します。)
※当日のスクリーンショットです。クリックしてご覧下さい。左からスクリーン1、2、3です。
(3枚目のスクリーンの説明)
①の写真は私が小学校低学年の時に青空リンクで滑っている時の写真です。先頭で滑っているのが私・・・ではなく、3番手で頑張って前を追いかけているのが私になります。②は青葉中学校時代で市からスポーツ表彰を受けた時のものです。山口市長と同じスケート少年団の団員と共に撮影した写真ですが、千歳スケート少年団はこの頃団員も多くてとても強く、表彰対象の選手が多かったです。③は駒澤高校時代の写真で、札幌の真駒内のリンクで全道大会に参加し、総合優勝を飾った時のものです。④は長野県にあるMウエーブでレースをしている時の写真です。スケートは少しでも速いタイムを出す為、このような空気抵抗の少ないワンピーと呼ばれるレーシングウェアを着用して滑ります。
※スクリーン4、5、6です。
(4枚目のスクリーンの説明)
皆さんは「心技体」という言葉をご存知でしょうか。私が選手として競技をしていた頃、スケート連盟の橋本聖子会長がこの「心技体」の大切さを説いて下さいましたので自分でも意識して取り組んできました。ピラミッドのようになっていますが、一番上は「心」でメンタル・精神力を磨く事、中段の「技」は技術・テクニックを磨く事、最後に「体」は筋力・持久力等の体力を鍛える事です。心と体をバラバラに分けて考えるのではなく、ひとつとして捉える方が本質に近いと感じます。
(5枚目のスクリーンの説明)
私がどのように目標を叶えていったのかをお話しします。「オリンピックで金メダルを獲りたい」という強い信念を持ったのは小学校6年生の頃で、当時長野県では冬季オリンピックが開催されていました。男子500mで清水 宏保 選手が金メダルを獲得、女子では岡崎 朋美 選手が500mで銅メダルを獲得したのを生中継で見て鳥肌が立ち、「いつか私もオリンピックに出てメダルを獲りたい」と強い信念が生まれました。スクリーンにある通り、小さな目標をコツコツと叶えていき、スタートとゴールを想定して繰り返していった結果、最大の目標を叶える事が出来たのです。
(6枚目のスクリーンの説明)
選手生活は順風満帆な事ばかりではありませんでした。時には勝てない事やタイムが伸び悩む事、そしてスポーツ選手にはつきものの怪我に悩まされる事もしばしばありました。小学生から中学生まで無名だった私は常に負けてばかりで、良いタイムも出せずレースの度に泣いていました。しかしそこでめげずに悔しい気持ちをバネにしてひたすら練習しました。すると、レースでも徐々に負けないようになり、表彰台に立つ回数も増えました。スケートで速くなる事と、勝つ事の楽しさに魅了され、スケートにのめりこんでいきました。
社会人時代にはオリンピック前に骨折という大きな怪我をしてしまいました。思うように動けないジレンマと怪我をした足の痛みで精神的に苦しんだ期間がありました。しかし、直ぐに気持ちを切り替えリハビリ治療に専念しました。私は直ぐに足の手術をして、東京の赤羽にある、国立スポーツ科学研究所と呼ばれる施設へ入り、リハビリに専念しました。トレーナーやドクターの献身的なサポートのお蔭もあり、1ヶ月程で歩行可能なまでに回復しました。周りには私の他にも沢山のトップアスリートがリハビリに励んでおり、それが刺激になって嫌気を差す事なく、リハビリ治療に専念する事が出来ました。
私はリハビリを行っている中で体幹トレーニングの重要性に気付きました。体幹とは人間の身体の頭部と四肢を除いた部分、つまり中心の事です。足を骨折し、制限があった私は体幹トレーニングしかする事が出来なかったのです。トレーナーの指導の下、体幹トレーニングをしてみるとビックリする位辛く、逃げ出しそうになる程でした。基礎作りに大切な春の季節に走る事や自転車に乗る事が出来なかった為、ほぼ体幹トレーニングだけで過ごし、スケートシーズンは不安だらけでしたが、意外にもバランス良く滑れるようになっていました。体幹トレーニングによって軸が安定した成果です。その年の成績は更にタイムを縮める事が出来ました。その他にもチームから離れ、リハビリ施設に入った事や、管理栄養士さん、かかりつけのドクターのお力添えなど最高の環境でリハビリ出来た事もその一因です。怪我や挫折は出来れば避けて通りたいですが、その環境を通して得るものもあり、それを乗り越える事によって以前よりも強くて逞しい自分になれると思います。
※その後余談としてお話された、ドーピング検査についてのプレゼンでは、私たちが想像もつかない様な厳密な検査体制で検査が行われている旨、説明されました。左からスクリーン7、8、卓話終了後に藤本会長より謝辞が述べられ記念品が贈られた様子です。
卓話の最後に穂積様は、「今回の講演は私自身選手だった時の事を思い出しながら臨みましたので選手時代を振り返る良い機会になりました。スケートを通して教わった事は計り知れませんが、引退しても人生は続いていきます。これまで教わった事を活かしながらメダリストとしての自覚を忘れる事無く、これからも沢山の事を学びながら人間としての器を向上していく為に過ごしていきたい。」と話されました。
※例会終了後、穂積様を囲んで、記念写真を撮りました。穂積様、貴重なご講演を頂き、有り難うございました。